簿記

本屋の常連たちとツケ払い 4

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石島公認会計士事務所
公認会計士・税理士
石島 慎二郎

サワムラ書店の前――

前髪を横に綺麗に整えた長めの黒髪を風に揺らし、

ひとりの女性が立ちすくんでいる。女性は書店のドアにくぎ付けになっていた。

厚いメガネを何度直してみても、ドアには何もない。

「たしか、この前は……」

数日前のこと。女性がいつもどおりサワムラ書店を訪れると、

重厚感のあるドアには一枚の張り紙があった。

「えっ……閉店……?!」

女性はかなづちで頭を叩かれたかのように、目の前の景色が歪んだ。

女性にとって、この本屋は特別だったのだ。

内気な彼女は本を読むことが大好きで、大正~昭和時代の生活の様子を記した

本が特に好きだった。

本屋のおじいさんは好みの本をさりげなく揃えてくれて、

人見知りな彼女も本屋のおじいさんと本のことを話すのは好きだった。

そんな本屋が、閉店――

おじいさんが亡くなったことは風のうわさで聞いていた。

その後、若い男性が来ていたが、まさか――女性は信じられなかった。

それが今日訪れてみると、張り紙がなくなっている。

確かめなければと、女性は意を決して、書店に足を踏み入れた。

「あ、あの~……」

消え入りそうな震えた声で若い店長らしき男性に話しかけてみる。

すると若い男性は、「いらっしゃいませ」と気持ちの良い笑顔で返してきた。

どちらかというと暗めの印象だった男性が、

今までに見たことのない表情を見せてきたのだ。

「あ、あの、ドア、張り紙……」

女性はそんな笑顔に驚き、さらにとまどってまともに話せない。

しかし男性は気にすることもなく、女性の意図をくみ取って答えてくれた。

「すいません、閉店を考えたんですけど、もう少しがんばってみようかなって。

続けることにしたんです」

それを聞いた女性は、真っ暗闇の中に光を見つけたように嬉しくなった。

厚メガネのちょっと地味な女性が涙ぐんで閉店撤回を喜んでいるのを見て、

レンは申し訳なさそうに言った。

「なんだかすいません、驚かせてしまって。

思ったより会社はもうけが……いや、なんとかなっているのかもしれないと知って、

立て直してみようかと思ったんです。」

「そうだったんですね!でも良かった、私この本屋が大好きで、

なくなってしまったらどうしようって……。」

「おじいちゃん……あ、私の祖父は熱烈なファンがいて幸せですね。」

「やはりお孫さんなのでしょうか?」

「はい、サワムラ レンと申します。

いつもお店にはいらしてくださっていますよね?」

自分のことを認識していたのに驚き、女性はおずおずと名乗り始めた。

「はい。イチノセ カスミと申します。

あの…もしお店のためにできることあったらお手伝いさせてください!」

今度はレンが突然の申し出に驚いた。

この女性、イチノセさんにとってはよほどこの本屋が大事なのだろう。

そんなとき、テーブルに「ドン!」と大量の本が置かれた。

レンとイチノセが同時に振り向くと、よく見る顔の年配男性がそこにはいた。

「そいつは良いことだ。俺も協力しようじゃないか。

とりあえずこれはいつものツケで頼むよ。」

「こんなにお買い上げを……ありがとうございます。

えっと、少々お待ちいただけますか。」

そう言ってレンは慌てて書庫に隠れた。

「シブサワさん、シブサワさん!」

年代物の本『簿記』を開くと、にゅるりとシブサワが飛び出した。

「今は昼寝の時間帯ぞ……どうしたのじゃレンよ。」

心底かったるそうにシブサワは応じた。

「いつものツケってなんです?どうやって記録すればよいのですか??」

レンは慌てて問いかけた。

シブサワは店内を一瞥すると、

「おお、彼が来たのか。ツケは掛売上のことじゃよ。

今すぐ現金で払うのではなく、後で支払うという約束のことじゃ。

彼、ヤマモトの場合は翌月5日に払うことにしているはずじゃ。」

「そういうことですか!じゃあお金を払ってもらう翌月5日に記録すればいいんですね?」

シブサワは首を振った。

「違うぞレンよ、 簿記は取引が行われたときに記録するのが鉄則じゃ。
本を売り上げたという事実は今まさに起こっている。だから、今、記録するのが正解じゃ。」

「でも、この前のとは違って現金も預金も動いていませんが……。」

「さよう。今は金銭はもらっておらぬ。だが、もらう約束はするわけじゃ。

後日お金をもらう権利、これを『売掛金』という。なので今回はこうじゃ。」

「本を10万円売り上げて、現金ではなく代金をもらう約束である売掛金が10万円増えた、

と表現するわけですね!」

「さようさよう。取引が起きたときにすぐに記録すること、

動くのは現金や預金に限らないというのが肝要じゃ。」

レンが急いで店内に戻ると、イチノセと年配の男性が何やら話していた。

「すいません、お待たせしましたヤマモトさん。

では来月5日のお支払いでお願いいたします。」

年配の常連客であるヤマモトは、自分の名前や支払日をレンが奥で調べたのだと思い、

ニッカリ笑った。

「頼んだぞ。しかしサワムラ孫よ、

本屋は本当に守っていけるんだろうな?」

ヤマモトに問われたレンは、

思わずシブサワのいる書庫を振り返ってしまうのだった。

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